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奈良地方裁判所 昭和57年(ワ)358号 判決

原告

越後正弘

越後寧美

右両名訴訟代理人弁護士

吉田恒俊

佐藤真理

相良博美

被告

右代表者法務大臣

後藤田正晴

右指定代理人

森口節生

外三名

被告

渋谷信治

富田令子

右被告三名訴訟代理人弁護士

辻中榮世

主文

一  被告富田及び同国は、各自、原告らに対し、各金九九九万円及びこれに対する昭和五六年九月二四日から完済まで各年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らの被告富田及び同国に対するその余の請求並びに被告渋谷に対する請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用のうち、原告らと被告富田及び同国との間に生じた分は、これを二分し、その一を右両被告の、その余を原告らの各負担とし、原告らと被告渋谷との間に生じた分は原告らの負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  申立て

(原告ら)

一  被告らは各自原告らに対し、各金一八三六万〇二七八円及びこれに対する昭和五六年九月二四日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告らの負担とする。

三  第一項につき仮執行の宣言を求める。

(被告)

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  主張

(請求原因)

一  当事者

原告越後正弘(以下「原告正弘」という)は亡越後英樹(以下「英樹」という)の父であり、原告越後寧美(以下「原告寧美」という)は英樹の母である。

被告国は、厚生大臣において所轄する国立療養所西奈良病院(以下「西奈良病院」という)の開設者であり、被告渋谷信治及び同富田令子はいずれも昭和五六年当時右病院小児科の常勤医師として勤務していた。

二  医療事故の発生

1 英樹は、昭和四五年六月三〇日生まれ(当時一一歳)の男児であるが、生後七か月頃に喘息様の発作が起こり、その後も同様発作が時々起きたため近隣の医院や郡山総合病院などで診療を受けていたが、小学校に入学した後も喘息発作が続いたため、同病院に入院するなどしながら医師の治療を受けていた。

2 原告らは、このような状態では通常の小学校への通学は無理と考え、昭和五三年一月一八日、英樹を隣接地に県立養護学校が設置されている西奈良病院に入院させた。

3 右入院後、英樹の主治医は当初の市川医師から北医師に替わり、さらに昭和五四年四月から被告渋谷になったが、その後昭和五六年八月一八日から被告富田に替わっている。

4 そして、右入院中の同年九月二二日早朝に英樹に重い喘息発作が起きて、同人は意識不明となり、奈良県立奈良病院に送られたが、同人は同月二四日同病院において呼吸不全により死亡した。

三  被告らの不法行為責任

被告渋谷及び同富田は、英樹の診療を担当した医師として、以下の注意義務違反行為をしたものとして民法七〇九条により本件損害賠償責任を負うものであり、また、右被告両名は被告国の被用者として、被告国の設置した西奈良病院でその事業遂行のために英樹に対する診療を行ったものであるところ、以下の注意義務違反により、同人を死亡させたものであるから、被告国は民法七一五条により本件損害賠償責任を負うものである。

1 一般的な健康管理に関する注意義務違反

(一) 医師は、入院患者に対し、当初の診断にかかる疾病の治療をなすべき義務を負うほか、同時に一般的な健康管理をすべき義務を負うものであって、その全身状態を常に的確に把握しておかなければならず、余病を併発し、或いは確定診断が付かなくても体調の異常の訴えがあった場合には、それに対して診療をして適切な処置をする義務があるものというべきである。

(二) そして、この義務の履行は、以下のような事情のあった英樹については特に重要であったものというべきである。

(1) 英樹は、その喘息治療のため昭和五二年六月一八日から郡山総合病院に入院していたが、その際昭和五二年七月末から副腎皮質ステロイドホルモン剤(以下「ス剤」という)の投与を受け、その後翌五三年一月一七日に退院するまで、その量に増減があったものの継続してス剤の投与を受けていた。また、その後引き続き前記のように入院した西奈良病院においても、後記のように昭和五六年四月にその経口投与が打ち切られるまで、ややその量に増減の差はあるものの一貫してス剤(製薬名プレドニン又はリンデロン)の投与を受けてきた。

(2) ところで、ス剤の投与には副作用が問題とされており、その軽症なものの例としては、イ、塞栓症状、ロ、皮膚症状、ハ、消化器症状、ニ、循環器症状、ホ、脂質代謝障害、ヘ、電解質異常、ト、尿変化、チ、精神神経異常、リ、出血傾向、ヌ、疼痛、ル、その他(嗄声、倦怠感、など)があり、これらについては投与中止により間もなく軽快する可逆的な副作用といえるのに対し、その重症のものの例としては、イ、感染症、ロ、副腎皮質機能不全(急性、慢性)、ハ、消化性潰瘍、ニ、糖尿病、ホ、精神病、ヘ、骨折などがあり、これらについてはしばしば生命を脅かす非可逆的副作用であるとされている。

(3) 従って、ス剤を投与中の患者に対して、医師はこのような多様な副作用が発現する可能性を常に念頭に置きながら、その患者の全身状態を常に的確に把握しておかなければならないのであり、ことに英樹のようにス剤を長期間連用している患者については、常により注意深い観察と全身状態の把握が必要であった。

(三) 英樹に対する健康管理について

(1) 英樹の場合、その身長が平均よりかなり低かったし、また、いわゆる育ち盛りであるのに、その体重も昭和五五年一二月の24.5キログラムを最高として翌年五月には二二キログラムに減少し、さらに同年八月には一八キログラムに減少していたのであり、さらに、疲れ易くてしばしば疲労を訴えていたし、食欲不振の状態がみられていた。

(2) 前項の英樹の状況はス剤投与に伴う副腎皮質機能不全に陥っていたことを窺わせるものであるし、その検査結果でもそれは明らかであった。

(3) しかるに、被告渋谷及び同富田は、英樹の全身状態についての注意深い観察を怠っていたため、その状態が次第に悪化の度を加えて行くのに気付かず、同人からの疲労の訴えを心理的な親子関係の問題と即断し、右(1)項の各症状を副腎皮質機能不全によるものとは考えず、また、前項の検査結果が出たのに対しても何らの対応もしなかった。

2 ス剤離脱に関する注意義務違反

(一) ス剤の長期連用によって副腎皮質の萎縮がある場合、急なス剤の投与中止は、急性副腎不全を惹起して不慮の死を招くことがあるから、その中止は長期にわたって漸減すべきであるが、副腎皮質の機能が順調に回復しない場合、慢性的な副腎不全を招来し、ホルモン不足のため外界のストレスに対応しきれず、体力を消耗することがある。このような場合には、補充的意味でむしろ積極的にス剤を使用しなければならないのである。

(二) 英樹については、前記のように長期間ス剤を投与されていたのであるから、副腎皮質の萎縮が存在したであろうことは充分に推測できるのであり、その年齢や前記の体力の減退状況も考えると、同人についてはス剤の離脱は困難であり、それを急ぐべきではなかった。そして、同人について右離脱を実行するに当たっては、その投与量を漸減しながら、その過程で尿一七―OHCS排泄量、ラビッドACTH試験などによって副腎皮質機能を調べ、その回復を見極めながら、ス剤の漸減(ときには漸増)を実施して行くべきであった。

(三) しかるに、被告渋谷は、前項のような医師として当然なすべき手順を全く履践せず、右検査も極く僅かしか行わないまま、昭和五六年四月からス剤の経口投与を打ち切ってしまったし、また、被告富田も同様に右診療方法を継続した。

3 喘息の根治療法に関する注意義務違反

(一) 気管支喘息は慢性の疾患であって、一部の症例を除いては、対症療法で済ますことは不十分であって、その治療には対症療法に加えて根治的な療法が必要である。根治療法としては、病歴、皮膚反応によって病因的抗原が確定された場合の減感作療法、非特異的な変調療法などがある。この変調療法としては、金製剤、ヒスタグロビン、細菌ワクチン、アストレメジン等が用いられる。

(二) しかるに、被告渋谷及び同富田は、前項のような根治療法を採っておらず、英樹に対して、ただ水を飲むとか、痰を出すとか、体を動かすなど自力で頑張らすという比較的健康で体力のある児童にたいする処置と同じ方針で治療を続けたに過ぎない。

4 死亡直前の措置上の注意義務違反

(一) 被告富田は昭和五六年八月一八日英樹の主治医となったが、その直後の同月二〇日と二一日に同人は重い発作を起こし、同年九月八日に酸素圧(PAO)の低下を伴う喘息発作が頻発し、以後状態は良くならず、養護学校への通学も同月は全休しており、一日中疲労感を訴えていた。

そして、同月二二日における英樹の状態をみると、同人は早朝に喘息発作を起こし、午前五時三〇分頃には尿失禁がみられるなど喘息発作が重症化し、極めて強度の大発作があり、午前七時には強度の発作が進展し始め、さらに午前七時三〇分には意識消失となるに至っており、午前八時三三分には下顎呼吸が認められる状態となっていた。

(二) 英樹の前項の状態に加えて、ス剤の効果の発生は投与後数時間を要することも考慮すると、少なくとも同日午前七時までにはス剤を投与するとともに、人工呼吸及び即効性の濃厚措置を取ることが必要であったものというべきである。

(三) しかるに、被告富田は、英樹に対して人工呼吸を施さず、前記のように同人が転医された県立奈良病院において始めて人工呼吸がなされているのであり、ス剤も同日午前七時までには投与されていないし、また、交感神経刺激剤の吸入等の即効処置は何もなされていない。

また、仮に、当時の西奈良病院における人工呼吸に関するスタッフ・設備・機材が不十分であって、被告富田が前記の時点までにそれを行うことができなかったとすれば、本件においてなされた時点より早い段階で転医の措置をとるべきであるが、転医先の決定が遅れるなどの事情から結局極めて遅きに失してしまったものである。

四  被告国の債務不履行責任

1 原告両名は、英樹の法定代理権を有する父母として、昭和五三年一月一八日、被告国との間で、同被告の経営する西奈良病院小児科に入院し、気管支喘息の原因を医学的に解明し、かつ、健康状態と病状に即した適切な治療行為を行うことを内容とする医療契約(準委任契約)を締結した。

2 仮に、前項の契約の成立が認められないとしても、原告両名は、前同日、被告国との間で、第三者である英樹のために前同様の契約を締結したものというべきである。

3 被告国は、右約旨に従って、英樹に対し誠実に診療行為を行うべき義務を負っていたにもかかわらず、同被告の履行補助者であった前記小児科の医師の被告渋谷及び同富田には前記(三項)の各義務違反があったもので、これにより英樹を死に至らしめたものであるから、被告国には右契約上の債務不履行責任があり、これにより生じた損害を賠償すべき義務を負うものである。

五  損害

1 逸失利益 金一六一二万〇五五六円

英樹は、死亡当時一一歳の男子であったから、満一八歳から六七歳まで四九年間就労可能であり、賃金センサス昭和五五年第一巻第一表の男子(一八歳から一九歳)労働者学歴計の年収にベースアップ分として五パーセントを加算した金額を基準とし、生活費控除割合を五〇パーセントとして、ホフマン式計算法(計数20.4611=26.3354―5.8743)により算出すると、次の算式により金一六一二万〇五五六円となる。

1,500,700×(1+0.5)×20.4611×(1―0.5)=16,120,556

2 慰謝料 金二〇〇〇万円

英樹の年齢、家族状況、本件医療事故の態様、原告ら自身の英樹を失ったことによる多大な精神的打撃等諸般の事情を考慮すると、雅澄自身及び原告ら固有の分を含めた慰謝料の合計額は金二〇〇〇万円を下らない。

3 葬祭費 金六〇万円

4 相続関係

原告両名は、英樹の両親として、以上の損害の賠償請求権を各二分の一の割合で相続した(慰謝料については原告ら固有の分を取得している)。

六  結論

よって、原告両名は、被告らに対し、各自、不法行為ないしは債務不履行に基づく損害賠償として、原告それぞれに各金一八三六万〇二七八円及びこれに対する英樹の死亡時である昭和五六年九月二四日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

(被告の答弁)

一  請求原因一は認める。

二  同二1のうち、英樹が昭和四五年六月三〇日生まれ(当時一一歳)の男児であること及び同人が郡山総合病院に通院、入院したことは認めるが、その余は知らない。

同二2のうち、英樹が昭和五三年一月一八日西奈良病院に入院したこと及び同病院に養護学校が併設されていることは認めるが、その余は知らない。

同二3は認める。

同二4のうち、英樹が昭和五六年九月二二日午前七時三〇分頃に意識不明となったこと、同人が奈良県立奈良病院に転送されたこと及び同人が同月二四日同病院において死亡したことは認めるが、その余は争う。

同三の冒頭の事実のうち、被告渋谷及び同富田が被告国の被用者として被告国の設置した西奈良病院でその事業遂行のために英樹に対する診療を行ったことは認めるが、その主張は争う。

同三1(一)については、医師にその主張のような一般的な健康管理に関する注意義務があることは認める。

同三1(二)のうち、英樹がその喘息治療のため昭和五二年六月から郡山総合病院に入院していたこと、同病院を退院後、前記のように西奈良病院に入院したこと及びこれらの入院期間中に英樹がス剤の投与を受けたこと(同項(1))、ス剤には一般的に同項(2)のような副作用があること、ス剤を投与中の患者に対して医師が一般的に同項(3)のような注意義務を負うこと、は認めるが、その余は争う。

同三1(三)のうち、英樹の体重が同(1)項のように推移していたこと及び同人がしばしば疲労を訴えていたこと(同(1)項)は認めるが、その余は争う。

同三2のうち、ス剤離脱に関しては、その主張の危険性などを考慮してその投与を中止する場合には長期にわたって漸減するなどの配慮をするべきであることは認めるが、その余は争う。なお、英樹についてス剤から離脱させた経過をいうと、被告渋谷は、英樹が長期間ス剤を連用内服していたことから、ス剤を急激に打ち切ることは危険であると考え、昭和五四年一〇月頃までは従前通りやむをえずス剤の内服投与を続けたが、同年一一月一七日から昭和五五年三月までの間はス剤の内服使用を漸減しつつ同剤からの離脱を試み、その後同年四月からは発作頻発のため再びス剤を増量したものの、同年九月頃からはス剤の内服使用の漸減と併せて、発作時においては英樹自らこれを克服する姿勢を身に付けさせる方法によってス剤からの離脱を試み、ついに昭和五六年四月一日ス剤からの離脱に成功したのである。

同三3のうち、(一)は認めるが、(二)は争う。喘息治療の方法としては、薬物療法(発作予防法、発作時対症療法)と生活指導を総合的に行い、かつ、症例に応じて組み合わせて選択して行かなければならない。英樹については、抗原検索を行ってきたにもかかわらず皮膚反応は全て陰性であったから、減感作療法を施すことは不可能であった。なお、金製剤は、重金属であって副作用が強く、昭和五六年当時も現在も小児には殆ど用いられていないし、特に英樹は、IgE値が高く、IgERASTにてペニシリュウムが陽性であるのでアトピー型であることなどから同療法の適応もなかったし、また、ヒスタグロビンとアストレメジンについては、一般にも重症、難治例には効果が期待できないといわれており、英樹に対して郡山総合病院で使用されていたが余り有効ではなかった事情があり、さらに細菌ワクチンとして知られるパスパートは、英樹について皮下テストを行ったが陰性であったので使用不可能であったうえ、同人は感染が発作のきっかけにはなっていなかったため、その適応でなかったことなどの点から、同人に対して右の各薬剤の使用がなされなかったものである。

同三4(死亡直前の措置上の注意義務違反の主張)のうち、被告富田が昭和五六年八月一八日英樹の主治医となったこと、同人が同月から翌月にかけて喘息発作を起こしたこと、同年九月二二日英樹が早朝に喘息発作を起こしたこと、同日午前五時三〇分頃には同人に尿失禁がみられたこと、同七時三〇分には意識消失となるに至ったこと及び同八時三三分には下顎呼吸が認められる状態となっていたこと(同項(一))、被告富田が英樹に対して人工呼吸を施さず、前記のように同人が転医された県立奈良病院において始めて人工呼吸がなされていること、ス剤は同七時までには投与されていないこと、交感神経刺激剤の吸入等の即効処置は何もなされていないこと(同項(三))は認めるが、その余は争う。

前記の尿失禁は、英樹がその約四〇分後には正常に排尿していること、さらにその後に朝食のパンを欲しくないと返答していることや以前にも意識障害を起こしていない状態の時に失禁したことがあることからみて、重症発作による意識障害のサインと考えることは正しくない。また、ス剤の効果の発生は投与後数時間を要するというが、喘息重積状態に対してはハイドロコーチゾン(ス剤の一種で、サクシゾンはその一つの薬品である)の大量投与が速効性を有し、有効量であれば一〇分ないし二〇分で呼吸の改善が望めるのであり、被告富田は、サクシゾンを、同七時四〇分に一〇〇ミリグラム静脈注射し、同八時一〇分に同量点滴し、さらに、同八時三二分にも同量点滴して、英樹の意識回復を図っているのは相当な措置というべきである。また、交感神経刺激剤の吸入の点であるが、英樹に対してはその以前から即効性の交感神経刺激剤ベネトリンを使用していたから、すでに同剤を使用していた患者が突然意識消失状態に陥った場合には、前記のようにス剤を大量に投与する方法の方が有効である。さらに、人工呼吸の点についても、心臓停止、呼吸停止の状態であればともかく、本件のようにこのような状態になっていないのに、重症喘息児が意識障害を生じたからといって直ちに人工呼吸を行う必要はないのである。そして、前記のス剤の投与に加えて、同八時一〇分にフィジオゾール三号(輸液)五〇〇ミリリットルを点滴し、同八時三〇分に強心剤ジギラノーゲC0.7ミリリットルの静脈注射をし、さらに、同八時三二分にも右フィジオゾール三号の点滴をしたうえ、同午後八時三三分に下顎呼吸が認められる状態となってからは、酸素吸入量を増やすとともに、同八時五五分と同九時〇一分にそれぞれメイロン(体内の酸塩基平衡を整えるためのアルカリ剤)二〇ミリリットルの静脈注射を行い、その結果、血圧も次第に上昇し、九時一〇分には一時消失した瞳孔反射もプラスとなり、喘鳴も出現し、九時五二分にはチアノーゼも消失するに至っているから、被告富田が以上に行った処置は妥当なものというべきであり、右の他に交感神経刺激剤の投与や人工呼吸が必要であったとすることは正しくない。

また、転医措置の不適切の主張について述べると、同日午前一一時に動脈血ガス分析の結果により炭酸ガスナルコーシス状態と診断され、この状態に対しては気管内挿管による人工呼吸が最適の処置と考えられたが、西奈良病院にはこれを実施するのに必要なスタッフも設備も整っていなかったため、県立医大病院麻酔科に入院を依頼して承諾をえたものの、遠距離の搬送は危険と考えられたため、近距離にあって麻酔管理も可能な県立奈良病院小児科へ入院を依頼することとしてその承諾を得、同一二時一〇分に救急車で同病院に搬送されるに至ったものである。ところで、本件における呼吸困難は、重症喘息発作に起因するものであるから、これに対しては単に人工呼吸を施すのみでは足りず、これと同時に重症発作に対する各種の薬物療法が施されることが必要であるが、当時奈良県下にはこの両者が可能な病院はなかったのであり、県立奈良病院への転医も同病院が一般病院であって救急処理に慣れているという理由によるものに過ぎないから、被告富田がより早期に転医措置を採らなかったことに過失はないといわなければならない。

同四の被告国の債務不履行責任についての主張は全て争う。ス剤に依存した難治性気管支喘息にかかっていた英樹に対する西奈良病院における治療は適切なものであり、被告渋谷及び同富田には前記のように医師としての注意義務違反とみるべき点はなく、被告国には債務不履行責任はない。

同五は全て争う。

第三  証拠関係〈省略〉

理由

一英樹が昭和四五年六月三〇日生まれ(当時一一歳)の男児であって、原告正弘が英樹の父であり、原告寧美は英樹の母であること、被告国は、厚生大臣において所轄する西奈良病院の開設者であり、被告渋谷及び同富田はいずれも昭和五六年当時右病院小児科の常勤医師として勤務していたこと、英樹が大和郡山総合病院に通院、入院していたこと、英樹が昭和五三年一月一八日隣接地に県立七条養護学校が設置されている西奈良病院に入院したこと、英樹が昭和五六年九月二二日午前七時三〇分頃に意識不明となったこと、同人が奈良県立奈良病院に転送されたこと及び同人が同月二四日同病院において死亡したことは当事者間に争いがない。

二前項の事実に〈書証番号略〉、証人高橋幸博の証言、被告渋谷、同富田(第一、二回、以下同じ)及び原告寧美各本人の供述並びに弁論の全趣旨を総合すれば次の各事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

1  英樹は、生後七か月の頃から喘鳴をしばしば起こすようになり、その発作が起こる度に近隣の医院等に通院し、或いは入院して治療を受けていたが、昭和五二年六月一八日に大和郡山総合病院に気管支喘息の病名で入院し、昭和五三年一月一七日に退院するまで同病院で診療を受けていたが、その間の昭和五二年七月二六日からス剤(ソルコテフ、プレドニン、セレスタミンなど)の投与を受け始め、以後右退院までその投与を受けていた。なお、その間英樹は京都大学付属病院にも入院するなどして診療を受けており、同病院から昭和五三年一月一三日付で主治医に対して英樹にス剤の影響と考えられる小人症と白内障を指摘して、その投与を控え目にすることが望ましいとの連絡がなされている。

2  そして、英樹は、大和郡山総合病院を退院した翌日から西奈良病院に入院して診療を受けることとなったが、その主治医は当初市川医師、次いで昭和五三年四月一日から北医師、翌五四年四月一日から被告渋谷へと替わっているが、同病院でも入院後一〇日余りしてからは喘息発作が起きた際にス剤(プレドニン、リンデロン)が投与され始め、昭和五三年一〇月二一日からは定期的にス剤の投与がなされるようになっている。

3  前項のように主治医となった被告渋谷は、当時英樹には小人症、白内障、肥満傾向、一時的糖尿病、副腎皮質機能の抑制などのス剤の副作用がみられたため、ス剤の投与を制限する方針を採ることを考えたが、英樹には喘息発作もみられたことや呼吸器感染を起こしていたこともあって、昭和五四年一〇月頃までは従前通りの量のス剤の内服投与を続けた。そして、同年八月ないし一〇月の間には大した発作は殆どなかったため、アレルギー反応の抑制剤であるグリチロン、気管支拡張剤のテオナP、痰を切る薬のビソルボンの投与を中止するとともに、同月末に副腎皮質機能検査であるラピッドアクステストをして副腎機能の低下を確認した後、同年一一月から昭和五五年三月までの間は一週間における回数を減らす方法でス剤の内服使用を漸減しつつ同剤からの離脱を試みるとともに、アレルギー反応の抑制剤であるインタールや吸入によるス剤であるアルデシンを漸減していった。しかし、同年三月以降にかなりひどい喘息発作が頻発したため、その後同年四月から八月までは再び注射や吸入によるス剤の投与を増量し、同年七月から喘息発作が余り起きなくなって、女子グループの運動に加わるなど活動性も出てきたため、同年九月頃からはス剤の内服使用の漸減と併せて、発作時においては水分を早めにとったり、腹式呼吸をしたり、排痰をするなど英樹自らこれを克服する姿勢を身に付けさせる方法によってス剤からの離脱を試みた。その間の同年一〇月、一二月、翌年三月には大発作が起きているが、一〇月の時にはス剤の点滴と注射が必要であったものの、一二月の時にはス剤の注射はせずに点滴のみで乗り切り、三月の時には点滴もせずに水分をとるだけで乗り切っており、この時点頃では男子グループと一緒に鍛練活動に参加するなどかなり活気が出てきていた。このような経過を経て昭和五六年四月一日以降には内服によるス剤(リンデロン)の投与は中止し、吸入用のス剤であるアルデシンは気管支のみに作用して体内に吸収されにくいためス剤特有の副作用を殆ど伴わない利点があるところから、これのみが使用されるようになり、このような形でス剤からの離脱が試みられることとなった。

4  その後、同年四月から翌五月中旬までは、麻疹にかかったため安静にしていた期間はあったものの、喘息発作自体は大したことはなく、喘鳴があっても自ら水分を取って乗り越えていたが、同月後半以降になると喘息発作が度々起こるようになり、翌六月に入ると殆ど毎日小発作がみられるようになった。なお、この頃から英樹は看護婦らからの水分補給や腹式呼吸の指示に従わない場合がみられるようになり、拒食も時々みられるようになっている。

そして、同月一五日に原告両名は被告渋谷と面談して英樹が痩せてきているため何か対策を講じることを訴えるとともに、ス剤の投与を再開することを要望し、その後も原告寧美から同様の要望が出ていたところ、同月二七日、ひどい喘息発作が起きたため、ス剤(リンデロン)を約三か月振りに静脈注射している。

その後翌七月にかけて英樹の病状はほぼ安定した状態が続いていたが、翌八月九日に原告両名と被告渋谷が面談した結果、同被告の診療について原告両名が信頼を失っていることが明らかとなった。そして、同月一二日、同被告は副院長から英樹の主治医を被告富田(当時、大村姓)と交代することを告げられ、同月一八日から被告富田が主治医となって英樹の診療に当たることとなった。

5  被告富田は、原則的には被告渋谷のス剤からの離脱を中心とした従前からの診療方法を継続することとし、喘息発作の予防薬として前記アルデシン、抗アレルギー剤のインタールや気管支拡張剤のネオフィリンなどを使用し、発作が中程度となった時には、ネオフィリンの静脈注射や輸液、酸素等を使用していた。なお、英樹の西奈良病院入院後の体重、身長の変化は、別表1、2のとおりであって、前記のス剤離脱一か月後以降の体重は目立って減少している。被告富田は、主治医となった時点における右体重(一九キログラム)は痩せる傾向にあるものの、肥満度でいうとマイナス約一六パーセントであるため特に異常域にあるとは判断していなかった。

6  被告富田が主治医となった後から同年八月末までの間に五日にわたって喘息の中発作が起き、翌月に入ってから同月二一日までの間にも五日にわたって中発作が起きているが、内服ないし注射によるス剤の投与はなされておらず、前項の投薬等の方法が取られていた。

7  同年九月二二日午前中には、英樹に次のような状況があった。

三時頃―「苦しい、苦しい」という声を出しながらも浅眠を続ける。

四時三〇分頃―「苦しい、助けて、院長先生」と呼ぶ。

五時頃―「苦しい」を連発しながら流涎。

五時三五分―尿を洩らす。

七時頃―流涎が再々あるうえ、半座位になり、身体を前後にゆすりながら、「しんどい」と看護婦に訴える。

七時三〇分頃―急に入眠状態となり、看護婦が呼び掛けても応答なく、意識喪失となる。

七時四〇分―顔色不良となり、冷汗を出し、瞳孔反射なく、縮小固定する。

八時二〇分―瞳孔反射が出て、自力で頭を持ち上げたりするが、痛覚は反応しない。

八時三〇分―口唇、爪床にチアノーゼが認められる。

八時三三分―下顎呼吸、陥没呼吸が始まる。

八時五二分―触診による血圧五八に下がる。

一〇時五〇分―動脈血採血。

一一時―右採血の動脈ガス分析の結果で、炭酸ガス127.3、酸素33.6を示す。

8  前項の状況において、同年九月二二日午前中に西奈良病院の医師らが行った主な措置は次のとおりである。

七時四〇分―当直医がス剤であるサクシゾン一〇〇ミリグラムを静脈注射。

八時一〇分―七時五〇分に来棟した被告富田がフィジオゾールとともにサクシゾン一〇〇ミリグラムを点滴注射。

八時三二分―フィジオゾールとともにサクシゾン一〇〇ミリグラムを点滴注射。

八時五五分―体内の酸塩基平衡を整えるためのアルカリ剤であるメイロン二〇ミリリットルを静脈注射。

九時〇一分―右と同じ注射。

一〇時五〇分―サクシゾン四〇〇ミリグラムを静脈注射。

一一時二〇分―ス剤であるリンデロン四ミリグラムを点滴注射。

9  その後同年九月二二日午前一一時頃、前項の動脈血採血の結果が判明して英樹に換気不全により意識障害(炭酸ガスナルコーシス)を伴う重症の呼吸不全状態であることを確認した被告富田は、人工呼吸を行う以外に救命方法はないと判断したが、西奈良病院の医師、看護婦らのスタッフや人工呼吸器等の設備では人工呼吸を行うことは困難と考えて転医措置を取ることを決め、副院長の岩垣医師を通じて県立医大付属病院に連絡を取って一旦同病院からその受け入れの承諾を得たが、同病院への搬送に約一時間を要することを考えてその依頼を取り消し、改めて同医師が約一〇分程度で搬送が可能な県立奈良病院に交渉した結果、その受け入れの承諾が得られたことから同一二時五分に同病院に転医することを決定し、救急車に依頼して同一二時一〇分に同病院に英樹を搬送し、同病院で気管内挿管による人工呼吸などの措置を受けたが、意識は回復せず、また、呼吸不全も改善しないまま経過し、同月二四日午後一〇時三〇分に呼吸不全により死亡するに至った。

三以上の認定事実等を前提として、まず、原告らの転医措置違反の主張の当否について検討する。

1  まず、昭和五六年九月二二日午前一一時に判明した前記動脈血のガス検査結果が、被告富田らが人工呼吸を行うために転移措置を決定する動機となったこと前記認定のとおりである。ところで、鑑定の結果及び証人豊島協一郎の証言によれば、右動脈血のガス検査は、血液内の炭酸ガス濃度を測定し、それにより客観的に喘息の状態を確認することができるものであって、前記の午前一一時に判明した数値は、正に死に直面した重篤な状態を示していたことが認められ、右結果から被告富田らが人工呼吸を行うことを決意したこと自体に責められるべき点はない。

ところで、前掲〈書証番号略〉及び被告富田の供述によれば、同被告は、右採血以前にも同日午前八時過ぎ頃を始めとして三回位右採血を試みたものの、いずれも失敗に終っていることが認められ、結局、そのため右結果判明時点より以前の段階における血液内の炭酸ガス濃度を明らかにする資料はない。しかし、前記のように、同七時三〇分頃に英樹が意識消失に至るまで、当日午前三時頃以降数回苦しいことを訴え、しかも、失禁、流涎もあり、また、呼吸困難をうかがわせる動作をしていたし、さらに、同八時三〇分頃には口唇、爪床にチァノーゼが認められ、同八時三三分には下顎呼吸、陥没呼吸も始まっていること等の前記認定の英樹の状況と、鑑定の結果及び証人豊島協一郎の証言とを総合すると、既に、右七時三〇分の時点でも相当の炭酸ガス濃度が上昇し、これにより昏睡状態に陥っていたことが推認し得るとともに、同八時三〇分頃の時点においては重篤な呼吸不全状態であったものと推認するのが相当と認められる。

このような状態に至っていることに加え、英樹は、すでに認定したように、長期間ス剤の投与を受けていたため、それに依存性を有していた難治性の喘息患者であったもので、その依存性の状態から離断させるため被告渋谷や同富田らの努力した結果、英樹は一応ス剤から離断の方向で成果が出ていたものの、その体重が相当に減少するなど体力的低下がみられていたし、また、喘息発作も時々起きていたのであって、同年九月二二日以前の段階で喘息大発作が発生する危険性が否定できない状態であったものといえるのであり、さらに、当日の英樹の前記の状況、殊に同人には七時四〇分にサクシゾン(ス剤)一〇〇ミリグラムの静脈注射、さらに、同八時一〇分にも同量の同薬の点滴注射がなされているのにその後特にこれによる効果が現れた形跡もないこと等の事情も考慮すると、鑑定の結果及び証人豊島の証言のように、少なくとも同日午前八時三〇分頃には、英樹に人工呼吸の必要性があることが明らかとなったものと解するのが相当である。

2  ただ、前掲証人豊島の証言及び被告富田本人の供述によれば、英樹のような年少者で重症の喘息患者に気管内挿管の方法による人工呼吸を行うためには、その挿管技術に習熟した医師が必要であることはもちろんであるうえ、呼吸管理を専門的に行う麻酔医や人工呼吸中の喘息患者に対する痰排除や薬物的措置などを手分けして行うことができるだけの医師、看護婦ら人的設備が必要であるし、また、人工呼吸器等の物的設備も相当なものが確保されていることが必要であるが、当時の西奈良病院では手術を行っていなかったこともあって麻酔専門の医師はおらず、被告富田自身は前記挿管を実施した経験はなく、また、その技術を習得するための研修を受けたこともないため、当時それを実施することを躊躇していたのであって、西奈良病院に前記の時点でそれを実施しうる医師が在院していなかったし、物的設備の面でも、当時存在した人工呼吸器は従圧式のものが一台あったが、これはその構造上重症の喘息患者に使用するのに適しないものであり、これにより適する従量式のものは配置されていなかったことが認められる。従って、当時の西奈良病院においては、重篤な状態にあった英樹に対し人工呼吸等の緊急救命措置を取るための人的及び物的態勢が整っていなかったものと言わざるを得ない。

3  他方、前掲証人豊島の証言及び被告富田本人の供述によれば、当時の奈良県下には呼吸不全などの呼吸管理を中心とする疾患を扱う救急呼吸管理部(IRCU)、または、集中治療部(ICU)を設置している病院はなく、本件におけるように重症喘息発作を起こした児童に対して何時でも直ちに人工呼吸によって救命しうる態勢にあった病院はなかったことが認められるのであるが、ただ、被告富田本人の供述によって認められるように本件で英樹の転医を受け入れた県立奈良病院では、麻酔専門医師はいなかったものの、英樹の搬送を受けて間もなくした頃には同病院の小児科医師らが気管内挿管に成功して人工呼吸を開始しているのであり、この点と本件で転医を決断した経緯に関する被告富田本人の供述を総合すると、同病院の方が人工呼吸の実施の技術ないしは呼吸管理の面ではより熟練した医師が配置されていたものといわざるを得ないし、また、人工呼吸と並行して施されるべき重症発作に対する各種の薬物治療の点についても、同病院には右のような小児科医師が配置されている以上、同医師に対して被告富田らが従前からの診療経過や英樹の状態などについて連絡を怠らなければ右治療の実施は可能といえるし、さらに右供述によれば、同病院は西奈良病院から車で一〇分程度の近い位置にあるうえ、当時の両病院の医師は奈良県立医大の卒業生が多く、比較的転医の交渉も行い易い関係にあった(前記の転医の際に特に難航したことの形跡はない)ことが認められる。

4 以上に検討した点を総合すると、原告ら主張のように被告富田らが西奈良病院において右人工呼吸を実施する義務があったものと解することは相当ではないとしても、被告富田としては、右のように重篤な喘息発作の状態にある英樹を救命するために前記の八時三〇分頃の時点で直ちに転医措置を取るべき義務があったものというべきである。なお、前記のように本件で転医につき現実に転医先の病院と交渉したのは副院長であり、このような緊急事態において右のような措置を取るためには当時在院した医師の協力がなされることが望ましいのであって、その点では被告富田のみにそのような措置を取る義務があったものと言うのは相当ではないとしても、このことから本件では主治医の立場にあった同被告自身の右義務違反を否定することが出来ないことは言うまでもない。

従って、前記のように同日午前一二時一〇分頃に至って漸く英樹の搬送措置が取られている以上、被告富田に転医義務を怠った過失があるものと言わざるを得ない。

5 そこで次に、右義務違反と英樹の死という不幸な結果との因果関係について検討する。

まず、被告富田本人の供述によれば、本件では転医先として奈良県立医大付属病院を考え、同病院とその折衝をした後、同病院への搬送時間が一時間位掛かることを考慮して同病院への転医先を取り止めたが、改めて転医先を県立奈良病院にすることを決めてから現実に同病院に搬送するまでには三〇分も掛かっていないことが認められるのであるが、奈良県立医大付属病院への搬送時間については、右時点までに当然知り得ることであるから、当初から県立奈良病院への転医措置を取ることを期待することは不当とはいえないことも考慮すると、本件で転医を決定したうえ搬送が実施されるまでに要する時間は三〇分程度とみるのが相当である。

そうすると、本件では同日午前九時頃に英樹の搬送措置が取られ得たことになるから、現実には右搬送、従って人工呼吸の開始が約三時間遅れたこととなるのであって、この遅れが無かったとすれば英樹の呼吸不全による死亡という結果を回避しえたといえるかが問題とされるべきである。そこで、この点について検討すると、前掲〈書証番号略〉及び被告富田本人の供述によれば、英樹の呼吸障害の状態は依然として継続していたものの、同日午前九時一〇分頃には一時消失していた瞳孔反射はプラスとなり、喘息も出現するに至ったことが認められるのであり、この点や既に認定した同日早朝からの英樹の病状の進行経過等を考慮し、前掲の鑑定の結果及び証人豊島の証言を子細に検討すると、右の搬送時間の遅れがなければ、英樹の死という結果は避けられ得た蓋然性は高いものと認めるのが相当というべきである。

6  そうすると、その余の点について判断するまでもなく、被告富田は民法七〇九条に基づく損害賠償義務があるものというべきであり、また、被告富田が被告国の被用者として被告国の設置した西奈良病院でその事業遂行のために英樹に対する診療を行ったことは当事者間に争いはないから、特段の主張のない本件では被告国も民法七一五条に基づく損害賠償義務があるものというべきである。

四次に、被告渋谷に対する請求について検討する。

1  一般的な健康管理に関する注意義務違反について

医師が入院患者に対し請求原因三1(一)項にいうような一般的な健康管理義務を負っていることは当事者間に争いはない。そして、前記のように英樹は西奈良病院に入院する以前からス剤の投与を受けていて、その投与期間は相当長期となっており、ス剤には一般的に同(二)項(2)のような副作用がある(この点は当事者間に争いはない)以上、同人の主治医にはこの経過を充分考慮して常に注意深い観察をしながら同人の健康管理をすべきであったことはいうまでもない。

ところで、先に認定したように、被告渋谷が主治医となった昭和五四年四月一日以降英樹の身長は伸びていったが、体重については余り変化しないまま経過するうち、内服によるス剤の投与が中止された昭和五六年四月には23.5キログラムであったのがそれ以降には減少傾向となり、最も減少した同年七月二一日には17.6キログラム(昭和五六年四月の体重との差は5.9キログラム)となっている。原告らはこの体重減少を問題としており、確かに一般的にみると、もともと体重の少ない児童が右のように減少(約四分の一が減少していることになる)することは異常といえる。しかし、〈書証番号略〉及び被告渋谷本人の供述によれば、医学的には小児期における体重異常(肥満及び痩)はその患児の身長相当の標準体重のプラスまたはマイナス二〇パーセントを超えるものと解されていることが認められ、この基準によると右の最小の体重でも体重異常には該当しないし、その後には少しずつではあるが体重の増加がみられることは前記のとおりである。また、右供述によれば、ス剤の副作用として肥満があり、英樹についても前記のス剤投与中止以前には右基準でみると肥満域に入っていた期間があり、右中止後の体重減少はその結果と考えられること及び前記のように英樹は昭和五五年六月頃には拒食をしていたことが認められるのであって、これらの点を総合すると、被告渋谷が英樹の体重減少に対して一般的な食事摂取の指示以外に特別な医療等の措置を取っていなかったとしても、それが医師の裁量の範囲を超えた前記の義務違反と解することはできない。

そして、先に認定した治療経過と鑑定の結果を総合すると、被告渋谷が主治医であった前記の期間中に英樹に対してなした健康管理に関する措置について、特に医師としての注意義務に違反するものと評価されるべき点があるものとは解されない。

従って、原告らの本主張は採用できない。

2  ス剤離脱に関する注意義務違反について

ス剤離脱に関しては、その主張の危険性などを考慮してその投与を中止する場合には長期にわたって漸減するなどの配慮をするべきであることは被告らの認めるところであるが、先に認定したように、被告渋谷は、主治医となってからス剤からの離脱を決めたが、約半年間は英樹の状態をみて従前と同じ投与を続け、その後はス剤の内服使用の回数を少なくする形で漸減して行き、その後喘息発作が頻発したため再びス剤の投与を増量したこともあったが、その後の英樹の右発作の回数、程度、その克服の状況等を考慮して、従前から行っていた副作用の殆どない吸入によるス剤の投与は継続しながら内服による投与は打ち切るという方法を取っており、その後主治医を被告富田と替わるまでの間で一度酷い喘息発作が起きた際にはス剤を注射しているのであって、これらの点に鑑定の結果及び証人豊島の証言を総合すると、被告渋谷が取った英樹のス剤離脱に関する措置が特に医師としての裁量の範囲を超えてその注意義務に違反する点があったものと解することは困難である。

従って、原告らの本主張も採用できない。

3  喘息の根治治療に関する注意義務違反について

気管支喘息について根治的な療法が必要であって、その療法として請求原因三3(一)項のような療法があることは被告らの認めるところであるが、前掲〈書証番号略〉、被告渋谷本人の供述及び弁論の全趣旨によれば、喘息治療の方法としては、薬物療法(発作予防法、発作時対症療法)と生活指導を総合的に行い、症例に応じてこれらを組み合わせ、或いは選択しながら治療を行わなければならないこと、英樹については抗原検索を行ってきたにもかかわらず皮膚反応は全て陰性であったから、減感作療法を施すことは不可能であったこと、なお金製剤は、重金属であって副作用が強く、昭和五六年当時も現在も小児には殆ど用いられていないし、特に英樹は、IgE値が高く、IgERASTにてペニシリュウムが陽性であるのでアトピー型であることなどから同療法の適応もなかったこと、また、ヒスタグロビンとアストレメジンについては、一般にも重症、難治例には効果が期待できないといわれており、英樹に対して前記の大和郡山総合病院で使用されていたが余り有効でなかった事情があり、さらに細菌ワクチンとして知られるパスパートは、英樹について皮下テストを行ったが陰性であったので使用不可能であったうえ、同人は感染が発作のきっかけにはなっていなかったため、その適応がなかったことなどの点から、同人に対して右の各薬剤の使用がなされなかったことがそれぞれ認められるのであって、これらの点に鑑定の結果及び証人豊島の証言を総合すると、被告渋谷が英樹の喘息疾患の根治治療法として試みた措置が、特に医師としての裁量の範囲を逸脱し、その注意義務に違反するものと解することはできない。

従って、原告らの本主張も採用できない。

4  以上のとおりであって、被告渋谷については、原告ら主張の注意義務違反があったものと認められないから、その余の点について検討するまでもなく、原告らの同被告に対する本件損害賠償請求は理由がない(なお、原告らは、被告国に対し、履行補助者としての被告渋谷の前記各注意義務違反が医療契約上の債務不履行に当たるものとして、これに基づく損害賠償請求をしているが、右違反が認められない以上、その余の点について検討するまでもなく、この請求は理由がないこととなる)。

五そこで、原告ら主張の損害額について検討する。

1  まず、原告らは、英樹の逸失利益として金一六一二万〇五六六円を主張しており、その主張の就労期間、賃金センサスの男子労働者の年収(ベースアップ分付加)及び生活費控除割合を前提としてホフマン式計算法によってその逸失利益を算定すると右金額となる。しかし、それは同人が満一八歳から六七歳まで継続して就労可能であることを前提としているが、既に認定した死亡前における英樹の疾患、それについての長期に亘る治療経過、前掲〈書証番号略〉によって認定できる同人の西奈良病院に入院中の生活状況及びその間の就労状況等からみると、同人が前記のように人工呼吸の実施により救命されたとしても、満一八歳に達するまでにその重篤であった喘息の疾患が安定して、通常の労務に就労し得たか、さらには就労後においても一般勤労者と同様にその勤務を継続しえたかが疑問として残るといわざるを得ない。この点から直ちにその逸失利益を否定することは相当でないとしても、その認容額については予測できる範囲に就労期間を限定して控え目に算定する他ない。この見地から考えると、本件における逸失利益の額は前記の算定額の約三分の一に当たる金五三八万円とみるのが相当である。

2  慰謝料については、原告寧美本人の供述によって認められるように、英樹は原告らの唯一の男児であって、同人は若年にして死亡するに至ったことによる同人及び原告らの精神的打撃は多大であったことが推測されること、その家族関係、前記の英樹が死亡するに至るまでの経過その他諸般の事情を考慮すると、英樹自身の慰謝料は金八〇〇万円、原告両名自身の慰謝料は各金三〇〇万円とみるのが相当である。

3  葬祭費については、前記のように英樹が原告らの唯一の男児であること及び原告寧美本人の供述によって認められる原告らの家族状況と弁論の全趣旨を総合すると、原告らは英樹の葬儀を行い、その費用として合計金六〇万円を下らない支出をしたものと推認するのが相当である。

従って、特段の主張、立証のない本件では、原告ら各自の葬祭費の支出による損害額は各金三〇万円となるものというべきである(原告らの主張は結局両名自身の損害を主張しているものと解される)。

4  そして、原告両名が英樹の両親であることは当事者間に争いがないから、原告らが各二分の一の割合で英樹の右1、2項の損害賠償請求権を相続により取得しているものというべきである。従って、これらと原告ら自身の前記損害とを合計するとそれぞれ金九九九万円となる。

六以上のとおりであって、被告富田及び同国は、各自、原告らそれぞれに対し、九九九万円及びこれに対する本件不法行為後である昭和五六年九月二四日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があるから、原告らの本訴請求は、右両被告について右の限度で相当として認容し、右両被告に対するその余の請求及び被告渋谷に対する請求はいずれも失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文、九三条一項本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官山田賢 裁判長裁判官大石貢二、裁判官齋藤正人はいずれも転補につき、署名押印することができない。裁判官山田賢)

別表1、2〈省略〉

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